|
 |
| プロフィール |
|
Author:dolphin69
シュールな映画が大好物ないるかです。
|
|
 |
|
| 『ドッグヴィル』 |
 
『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー
環境要因と集団の抑圧。瑣末な猜疑心が狭い空間では命取り。許しと傲慢の関係性、そこには神が与えた(人間が生んだ)道徳という名の拘束によって人々の間に共有の傲慢さが現れる。 それは個人が埋没しながらもなおも個人の上に圧し掛かってくる重さであり、責任であり、秩序である。猜疑心、問題、不安が生まれたときにどうしてもその問題を解決するために何か具体的な要素、(作中では実例という言葉を使っていた)が必要となってくる。 その要因は主に共同体の外部の要因であるほうが受け入れやすく望ましい。内部である場合は最も力の弱いものがスケープゴートになる。 最後の責任の取り方そこにはいくつかの真実が隠されている。二コールキッドマンは最後までギャングである父や狭い空間で偏狭な精神活動をしている村人たちとの際を求めていたが結局は同じ行為によって場を収めている。 彼女の中で一つの悟りのようなものが見えたのが村人達の死んだような顔にあった。来たときには美しかったその顔が醜く変わり果てている。それは彼女が引き起こしたのではなく彼女を媒介に外部に対する欲求が情念となって爆発したせいである。 持つべきでない願望は時に人の身を狂わせる。また彼女自身も村を消すことによって善を成したという傲慢さと戦わなくてはいけなくなったのである。この時点からが彼女の本当の戦いである。
|
| 『ヴィタール』 |
 
『ヴィタール』 塚本晋也
『ヴィタール』を観ました。浅野はかっこいいですね。いつか犯罪を犯しそうな顔をしています。
人体の内部にある真理と生命、それを追求する男。彼は夢と現実の境界に生きる。人間は死によって外界との約数を最大にまで増やすことが出来る。 つまり、死ぬことによって人間は一個の死体になるのであり、他者から診ればそれは一つの外部存在でしかなくなるのである。 意識のあるうちは人間というカオスが内面に存在しているが、死者には沈黙という秩序しかないのである。 その死者の体の中にある生命を見つける作業、解剖という名目で行われる性交に没頭する一人の青年。 死と生の境目を見出せずに彼は一人夢と格闘する。
そこにはある種の啓示があるといっても過言ではないだろう。 人の体の内部を見ることは非検体の死をもってでしかありえない。つまり生きた人間を隅から隅まで見ることは出来ないのだ。 死体に没頭する彼。彼は夢と現実の差を死体と生者の差のように感じている。夢の細部を明らかにするには時間の停止すなわち、非検体の死(目覚め、夢の死)が必要なのなのだ。 夢と現実が違うものだと仮定をしよう。その場合、背理法を使えば現実を知るためには観察者が死ぬことが必要十分条件になる。 つまり観察者が死ねば現実という概念がストップしそれを観察者自身の止まった脳で観察できるのだ。 そんなことは現実にありえる話ではない。では、夢と現実が同じものだという仮定で話を進めるとどうなるだろうか。 夢と現実が同じであるならば、非検体の死によって一つの現実の姿が明らかになる。
世界は死に満ち溢れている。死の数だけ世界には現実があるのだ。その全てに対して言及することは不可能だろう。 ヴィタールの主人公は演繹的にそれを確かめようとしたのだ。一人の人間の死を隅々まで把握しようとした。 夢と現実の差、情報量の多いほうを我々は現実だとしている。しかし、夢の世界のほうがそれが勝れば……我々はどちらが現実と言えるのだろうか?
死の世界に没頭しすぎた彼は、夢の世界に引きずり込まれていく。彼は言う。「こっちが本当なんだ」 外側にいる我々は幸せなのか、不幸せなのか?分からなくなってくる。
|
|
 |
|